アートアンドアーティスト
冨岡 雅寛    
CHAOSMOS Wave Machine Party vol.2  "Surfing"
「TOKYO−ASEAN JAM ′03 」 12月22日、青山「共存」
asean0031 冨岡雅寛のカオスモスシリーズ、年内最後のパフォーマンスが、アート・フェスティバル「TOKYO−ASEAN JAM ′03 」の一環として12月22日、青山「共存」で開催された。
 メンバーはドラム・原田淳、ライブビデオシューティング・倉嶋正彦、ダンス・別所るみ子である。年内に限ると原田は2度目、倉嶋は展示を含めて3度目、別所は2001年8月以来の共演となる。01年8月のMakii Masaru Fine Artにおけるパフォーマンスの際には倉嶋、サウンドパフォーマンスとして沖至、和田光孝が共演し、冨岡のマシンは縦に吊られたシャフトをマシンに当てると音と共にウェーブが起こるChaosmos Acoustics Wave Machine(以下CAWM)が3台、二系列のマシンをX型に組み合わせてそれぞれ異なる波を同時に作り出せるChaosmos Wave Machine Xが1台という構成であった。今回のパフォーマンスは、この01年8月のものと連続性があるといっていいだろう。冨岡は今回、CAWMを5台用意し、それぞれのシャフトを連結させ、更に光りの反射を強調する為にマシンのパイプの両端に銀色のテープを巻きつけ、ステージ向って左側にドラムセットが用意されているステージと客席を隔てる帳のように5台を均一に設置した。ステージ背後には倉嶋の映像が投影されるようにスクリーンが張られた。このスクリーンには2台のプロジェクターが向けられている。1台は倉嶋の映像用、もう1台は青い光そのままの、ライト代わりのものである。そのステージと客席の間を、別所が突き抜けて踊る仕組みになっている。
 年内の、共演という形で冨岡が使用したマシンは、6月では水の波紋をスクリーンに映し出すChaosmos Turbulent Flow Machine(以下CTFM) 14、磁石を使用し音が発生するChaosmos Magnetic Acoustics Machine、容器に振動を与えることによって液体の動きが変化するCTFM6と13であり、7月ではH型のバーを揺らすと容器内の液体に乱流を出現させるCTFM 1と、容器の底に手のひらを当てて対流を起こすCTFM 2-Version 3であり、10月の際にはCTFM 14を改名したChaosmos Ripples Machineであった。それぞれ異なる形式のものを使用したので、カオスモスの全貌の理解につながった。それはカオスモスの持つ形式の広さを表すと共に、その全てがあらゆる場面にも対応できることを示す。
新しい試みは、これまで楽器を使わずカオスモスマシン自体をマレット、ゴムボール、スティックなどで直接「奏作」してきた原田が、今回CAWMに手を触れることなくドラムセットを用いて即興する点と、原田と別所が始めて共演するという点である。なお、この「奏作」という言葉の意味は、【鑑賞者の「奏作」以外の動力(電力等)を使わない、体験すべき現象を創りだすのは鑑賞者自身であり、楽器を奏でるように関わるべきだとして、「操作」ではなく「奏作」と表現している】と、冨岡は、12.22の特設Siteで述べている。
[Chaosmos Acoustics Wave Machine+3人のパフォーマー]
Dance 別所るみ子、Percussion 原田 淳、Video shoot 倉嶋正彦
テーマは「Surfing 多様な波の共存」である。【波は、たとえば正面から異なる振幅の波が来てぶつかっても互いにすり抜けてしまいます。そして、いろいろな波が存在するほど、輝きは豊かになります】と、同Siteで冨岡は説明している。
観客席の照明は落とされ、ステージをプロジェクターが青い光で照らし、ドラムセットにスポットが当てられている。原田のドラムで始まる。その音に誘われるかのように、別所が客席の後ろから壁を伝ってステージに向かう。原田はマレットによりシンバルにパルスを発生させ、ゴムボールでタムタムを擦り耳に馴染みのない音を形成し、鈴を鳴らして会場内の空気を振動させ、スティックに持ち替えると強烈なビートをスネアに叩きつける。別所はその音に反応するように、或いは別所が原田を誘導するように、右から左、左から右、前から後ろ、後ろから前へと身体を柔軟に移動させ、大きく、小さく、素早く、ゆっくり、延滞、回転というリズムを引き起こし、CAWMの特性である垂直性を強調する為に手だけでなく、身体を屈伸させて頭を使ったり、回転しながら肩を触れさせたり、寝そべって脚をあげたりして、身体全身を駆使して踊りながらCAWMを「奏作」する。その動きと音に倉嶋は敏感に反応し、別所以上にステージ、観客席と所構わず動き回り、膝をつき、立ち上がり、中腰になりながら、映像のノイズを逆利用し、CAWMと原田と別所をスクリーンに断片的に投影する。ノイズはCAWMに貼り付けられたアルミテープが放つ光と融合し、別所を観客席と異なる角度で捉えた映像は、瞬間のとらえがスキャン方式である為、ディレイ効果も兼ね備え、時間性さえも困惑させる。つねに微細な時間軸が、リアルと過去と未来のなかで揺れ動いている。まるでデ・ジャブを起こしたのか、または別所が増殖したのであろうかという錯覚に陥らせる。原田はCAWMと別所とのsolidな関係の構築だけを目指している訳ではなかった。それが意識してなされた音であるのかは定かではないが、原田のリズムは倉嶋のコマ落としの映像と、見事にシンクロしていたのであった。
ステージは映像、CAWMの放つ光、CAWMと別所の実体、実体の影、青い光が層になっていて、それらは重なり合い、分け隔て、再び溶け合う。CAWMは、舞台装置ではない。円熟したプレーヤーの態度を即座に映し出しながらもどこまでもニュートラルである構造と、それ自体の存在感の強さを兼ね備える恐るべきマシンである。ここにあるものは全て対等であった。何かが特別なのでもなく、しかしながら何かが欠けてしまうと成り立たない。これはカオスモスマシンが、その時代の中にある芸術に対してアンチを示す「非=芸術」でもなく、その「非=芸術」と芸術の間をさまよう「アヴァンギャルド」でもない性質を表している。この性質を最大限に引き出したこの程のパフォーマンスは、「Surfing」の主題である多義的な世界観、価値観の現前化にも成功したとも言える。瞬く間の25分間であった。
パフォーマンスが終わり、気が付いたのは、3者とも自己の手癖を大切にしていることだ。原田はフリージャズを気取ることなく、奇抜な音を目的とせず、かといって従来のフォービート、エイトビートを反復させるのではなく、原田自身のビートになっている。別所は一見、足の爪先から手の指先、長い黒髪の先、視線の届くところまでと身体を全て使って空間を切り裂き、新たな空間を開いているようにも見える。しかし、そのベースとなっているバレエの動きを決して切り捨てることはない。かといってバレエの動作のヴァリエーション的類型を見出すことは出来ない。発展でもない。やはり別所しか持ち得ない空間を形成している。倉嶋は今年、冨岡との共演を多くこなした為であろうか、マシンに対しての認識が深まり、そこから生れたイメージを惜しみなく出している。そういっても簡単に出せるものではない。そこにある思考の変遷は計り難い。当日のトラブルがあったとしてもそれを逆利用してしまう発想は、「見た気になっていないか」と自警の念を持つ「視而不見シリーズ」が支えているとも考えられる。見た気になってしまえば、トラブルを即座に解決できない。このような自己に対する厳しさをそれぞれが持ち合わせていなければ、パフォーマンスは、満足なものにならなかったのではないだろうか。そのような3者が、それぞれに対して互いに理解と敬意を払い、しかもそれが馴れ合い、闘争とはならずに意識しながらも、または図らずとも「奏作」を導き、複雑で多面的なパフォーマンスとなった。
今回は別所のみが「奏作」したことになるが、それを見ることによってそれぞれが以前CAWMを触れたことを思い出し、更にその感覚はCAWMだけではなく、他の冨岡のマシンを自らが「奏作」した際の心情を思い起こすことが出来る。次のカオスモスマシンの展示が待ち遠しくなる。
(文責 宮田徹也 awoniyoshi@themis.ocn.ne.jp
©冨岡雅寛、撮影:飯村昭彦、©別所るみ子、©原田 淳、©倉嶋正彦