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冨岡雅寛氏のカオスモスに寄せて  

高木隆司/神戸芸術工科大学 特任教授

 

     
 

 冨岡雅寛氏の作品は、昔からしばしば拝見している。理科系の世界にいる私にとって、同氏の作品は非常におもしろい。子供がおもちゃで楽しむように、楽しんでしまうのである。それから、「カオスモス」とは、非常にうまいネーミングである。これは、混沌を意味するギリシャ語の「カオス」と、宇宙を意味する「コスモス」との合成である。このことから、同氏はカオスに満ちた宇宙を提示しようとしているように見えるし、宇宙はカオスだ! と主張しているようにも聞こえる。あるいは、宇宙的秩序とカオスを融合させようと画策しているようにも思える。いずれにしても、アグレッシブである。

 ここで、カオスの物理的意味について一言のべたい。カオスは、混沌といっても、完全に乱れた状態を指すのではない。全体としては不規則に見えても、その部分を見ると秩序だった運動に支配されているような現象をカオスと呼ぶのである。たとえば、フランスの数学者アンリ・ポアンカレーが19世紀末に示したように、3個以上の天体があるとき、それらの運動は不規則なふるまいをする。天体が、万有引力の法則に厳密にしたがって運動するにもかかわらず。このように、サイコロを振って決めるような行き当たりばったりの動きをするのではないが、それでも一見して不規則にふるまうのがカオスなのである。

 カオスを直感的に理解するには、水の流れを見るのがもっとも簡単である。沢を流れ落ちる水、橋の上からみる川の流れ、線香の煙などをしばらくながめてみよう。常に同じ方向に流れているように見えて、実は不規則なゆらぎが含まれている。このことは、昔から認識されていたようである。たとえば、鴨長明の著した方丈記は、次の文から始まる。

 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかた(泡)は、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。

ここで注意すべきは、この文は流れが不規則だと言っているのではなく、泡の生成消滅が不規則だと言っていることである。しかし、泡の挙動は流れに影響されているので、間接的には流れのカオスを示唆しているのである。日本人は昔から、カオスから世界の無常を感じていたようである。実は、仏陀も、泡を例にして世の無常を説いた。原始仏教の経典に、方丈記の冒頭とよく似た文がある。もっと古い文化にも、渦や波の文様がしばしば現れる。たとえば、縄文土器には、渦の列をモチーフにした文様が見られる。

 もちろん、ポアンカレーの業績から想像されるように、多数の物体をゆるく結合して動かしてみれば、カオスを観察することができる。しかし、そのためには苦労して装置を作らねばならない。これには、長年の経験とこつが必要である。やはり、冨岡氏に頼るのが最良の方法であろう。

 ここまで読んでいただいたら、私が言おうとしていることを推察していただけるであろう。冨岡氏のカオスモスは、日本文化(あるいは世界文化かも)の底流として流れていたものを受け継いで、それに最近の科学的知見を組み合わせることにより、新たな芸術の動きを生み出そうとする試みだと、私は解釈しているのである。

 科学と芸術は、昔から密接な関係で結ばれていた。優れた芸術は、それぞれの時代の最新の科学技術を応用して生みだされた。フレスコ画しかり、油絵しかり、写真しかり、映画しかり。最近では、レーザー技術や、コンピューターが応用されている。これが芸術の本流なのである。その意味で、カオスモスは芸術の本流にのっていると思う。

 私事で恐縮であるが、カオスモスの、とくに流れを可視化する作品には教えられるところが多い。水や空気は透明なので、そのままでは流れは見えない。そこで、微粒子や染料を混ぜて目に見えるようにすることを可視化とよぶ。基礎物理学の畑にいた私には、可視化技術を深く追求する余裕がなかった。そのために、冨岡氏の作品に感銘をうけることがしばしばあったのである。

 冨岡さん。今後とも、想像力を発揮させて、知的なおもしろい作品をどんどん作ってください。それによって、芸術と科学教育の両方の分野に、おおいに貢献されることを期待します。

 
     
     
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