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横浜美術館 子どものアトリエ企画[手でみる展覧会5]
不思議を触ろう<カオスモス>冨岡雅寛展
3/6(日) オープニング アクト
[パフォーマンス/CHAOSMOS WAVE MACHINE PARTY Vol.3]報告
 

宮田徹也/日本近代美術思想史

 

         
     

このときの展示風景はこちら

 
         
 

 2005年3月6日から20日まで、横浜美術館アートギャラリーにおいて、「不思議を触ろう<カオスモス>冨岡雅寛展」が、開催されています。そのオープニングアクトとして、「CHAOSMOS WAVE MACHINE PARTY Vol.3」が、3月6日に行なわれました。その模様をレポートします。

 題目に「Vol.3」とあります。一度目は、2001年7月30日〜8月1日に開催された「冨岡雅寛カオスモス展 '01/second CHAOSMOS WAVE MACHINE PARTY」(新橋 マキイマサルファインアーツ)の際の、8月4日のパフォーマンスです。使用したマシンは2001年に制作されたChaosmos Wave Machine X(エックス)【以下X】一台と、同年制作のChaosmos Acoustics Wave Machine【以下W】三台でした。出演者は、別所るみ子Dance Performance 、沖至Sound Performance、 和田光孝Sound Performance、 倉嶋正彦Video Shoot、飯村昭彦Photoという、ダンサー一人、Sound二人、Visual二人の計5人でした。

 二度目は、2003年12月22日の一日イヴェント、J-ASEAN POPs「TOKYO-ASEAN JAM'03」(青山・共存)が、[CHAOSMOS WAVE MACHINE PARTY vol.2 Surfing]と銘打たれ、開催された時でした。使用したマシンはWを改良したもの五台でした。出演者は、別所るみ子Dance Performance、原田淳Drum、倉嶋正彦LIVE Video Shooting&Projection、飯村昭彦Photoという、ダンサー一人、Sound一人、Visual二人の計4人でした。

 今回、個展はギャラリー内で行なわれているのですが、このパフォーマンスは、ギャラリー前場外で行なわれました。使用したマシンはX一台です。出演者は、別所るみ子Dance Performance、米本実Live Electronics Performance、原田淳Sound Performanceという、ダンサー一人、Sound二人の計3人です。

 冨岡雅寛CHAOSMOSシリーズの多種多様な活動の中で、この「CHAOSMOS WAVE MACHINE PARTY」とは、主に別所氏が参加する時に、名付けられている様子です。そして今回が過去2回と異なるところは、Visualを操る方の参加が無いことです。別所氏は、この環境でどのような活動を繰り広げたのでしょうか。

 3月6日は曇り空の中、とても寒い日でした。前々日に雪が降っていたので、当日の開催が危ぶまれていたくらいです。何とか日光も射し、18時位まで日が延びていたことが良かったと思います。

 16時スタート予定とDMにもHPにも告知があったのですが、16時は、まだ、Xの公開制作途中でした。この不思議な動きをする、6メートルにも及ぶXが、どのように作られていくのかを見ることができるチャンスでした。シフトをX型にして、何か紐の様な物を通しています。マシンに長さがあるため、簡単にできるような作業ではない様子です。制作は17時を少し廻って、やっと完成しました。美術館の入り口が左手、Xが中央だとすると、右手にはドラムセットが既に設置されてありました。そのドラムセットとXの間にアンプ、ミキサー、スピーカー、自作電気楽器が並んでいます。米本氏は、椅子に座って演奏する様子です。これらのステージは、横浜美術館のすぐ出たところの、幅5メートル程の回廊のような場所でした。ですからXの前に柱があって、少し視難い感じがしましたが、その柱の裏に巨大なライトが設置され、Xを明るく照らしていたのでした。

 このような環境に加えて、本当に人が多く集まっていましたので、私は、一箇所に止まらずに、うろうろして、様々な角度からパフォーマンスを楽しみました。

 17時15分頃、集まったお客さんに対して、横浜美術館学芸員三ツ山氏から冨岡氏、別所氏、米本氏、原田氏の簡単な紹介がありました。

 17時20分に、パフォーマンスはスタートしました。鳥の声が聞こえてきます。米本氏が準備したCDです。米本氏は自作楽器1号機を、まるでエレキギターを構えるように肩から掛けて、立って演奏します。不思議な電子音が響きます。原田氏も、立ってガラガラのようなものを鳴らしています。次第に音が安定してくると、原田氏はドラムセットに向かい、マレットによってタムタム、シンバルを擦り、場を創っていきます。

 17時25分に、別所氏が入りました。寒いからでしょうか、黒いコートを羽織り、手袋を着用し、踵が高く、しっかりしたブーツを履いていました。髪はポニーテールに結わいて、その髪は別所氏の動きと共に、小刻みに揺れていました。Xの左側にあるレバーに接触することから始めました。レバーによりXを回転させ、自らも回転します。波が収まると、別所氏はしゃがんで、Xの下に入っていきます。最後まで行くのかと思いきや、途中で抜けて、壁に張り付き、今度は側面からXを奏作していきます。

 17時30分に、別所氏はコートを脱ぎ、手袋を棄てました。茶色のカーディガンを着用していました。動きがどんどん激しくなっていきます。Xを奏作するだけではなく、床を転がってXを通り抜け、美術館の窓の縁に登って足を上げ、体を構成します。

何時の間にか、米本氏のCDは鳥が囀るジャングルのような音が消えて、ミニマルな繰り返しをする電子音が良く聞こえるようになりました。この音をよく聞くと同じ音が繰り返されているのではなく、若干の変化が感じられるのです。つまり、機械による機械的な繰り返しではなく、繰り返しを演奏して録音したものであることが判ります。「このミニマルな繰返しは、ゲームボーイアドバンス上で動く音楽ソフト「NANOLOOP.2」で制作したもので、それを本格的に使った初めての作品である」と、後日、米本氏に教わりました。米本氏はこの音をバックに、この音をバックに、ボタンでキーボードの様に音程を制御するユニット、体に電流を流してその抵抗によって音を変化させるケーブル、光センサーをXの影の部分に直接かざして、影を音に変換させるなど、様々なオプションを一つずつ自作楽器1号機に接続して、多種多様な音を空間に散りばめました。

原田氏はこの間、激しくリズムを形成するのではなく、まるでモザイクのような音の塊を生み出し、断片的に演奏していました。このような演奏スタイルは、今までの原田氏の演奏で聴いたことがありませんでした。原田氏は、特に別所氏の動きを良く見ていました。きっかけを別所氏と共有しても、その後の別所氏の動きに合わせることはしませんでした。時には大胆に演奏を止めました。ですから、別所氏の「伴奏」になることなく、独立した音のマッスを提示することに成功していました。このような演奏スタイルを原田氏がとった理由は、米本氏の演奏を意識したが為かも知れません。米本氏の演奏の特徴は、繋がる音をまるで襞のように折り重ね、次々と積み上げていくところにあります。この日もその演奏スタイルを守っていました。その様な米本氏の演奏スタイルに原田氏は応えるようにしていた気もします。二人が作りだす音は音響とも言えるもので、この音響は音というよりも映像的なイメージを、ここにいる人に感じさせたのではないでしょうか。かといって、映像が無いからそれを作りだすために音を犠牲にしていたとは思えません。音は曲ではなく音楽として確かに成立していました。そしてその音楽は、音楽の特質の一つでもある「現象」を強調していたのではないかと思います。そこに、きっかけが音と根底的に繋がっている別所氏の動きが、幻想のように派生してきます。この「現象」は、カオスモスマシンを触れた際に発生する「現象」を、思い起こさせてくれるといえるのではないでしょうか。

17時35分頃、米本氏は再び1号機を翳して、立って演奏しました。別所氏はXの側面に背を沿わせて、優雅な曲線を描きます。また寝転がり、足を使ってXを揺らします。別所氏としては会場が広かったことが幸いしたのでしょう、Xが動いている間に、Xの廻りを大きなステップをもって飛び跳ね、旋回しました。別所氏の普段から持っている最も美しい、リラックスした、伸び伸びとした動きでした。それがここにも含まれていることが、嬉しい限りです。米本氏、原田氏の「現象」が佳境を迎えます。モザイクが立体的に渦を巻くように、音が空間を支配します。

17時45分、米本氏のCDは、何時の間にか初めに在った鳥の声のものになっていました。米本氏が演奏を止め、別所氏がXの下に垂直に横たわり、CDの音が突然止まり、原田氏が鈴を一つ鳴らして、パフォーマンスは終了しました。

今回のパフォーマンスは、短くかつ完成度が高かったと思います。カオスモスが創りだす「現象」とは、決してVisualなものだけではなく、Soundとしても成立していることが理解できました。そして、別所氏のDanceと、原田氏、米本氏のSoundは、岡倉覚三の言うアドヴァイタのようなものではないかという気がしました。「「アドヴァイタ」という語は、二ではない状態を意味する。これは、存在するものは外面上いかに多様であろうとも、じつは一であるという、偉大なインドの教義が命名した。従ってすべての真理というものは一つのものの差異化としてみなされねばならない。宇宙全体は、どんな細部にも宿っているのである」(『東洋の理想態』The Ideals of the East研究会訳)。異なるようで、実は一である。カオスモスは、そのどんな細部にも宿っていたのです。

 
     
     
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