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CHAOSMOS LIVE Vol.3 感想  

宮田徹也/日本近代美術思想史

 
  このときの展示の模様はこちら  
     
 
 2004年10月2日、冨岡雅寛カオスモス展’04[CHAOSMOS Zone](10/1〜10/30)のスペシャルイヴェントとして、展示会場である東京都港区麻布十番のMedia Bar infocurious(http://www.infocurious.com/)において、CHAOSMOS LIVE Vol.3が行なわれました。
会場風景。機材を準備中。
     
私はカオスモスシリーズを画廊等で眼にした事はありますが、CHAOSMOS LIVEを実際に体験したのは、今回が始めてでした。そのeulogyめいた感想を、ここに記します。

この度、使用されたマシンを記します。

・ Chaosmos Ripples Machine(2003)〈以下、CRM。〉
・ Chaosmos Magnetic Acoustics Machine(2001)〈以下、CMAM。〉
・ Chaosmos Turbulent Flow Machine 6(1997)〈以下、CTFM。〉
・ Chaosmos Tornado Machine(1996)〈以下、CTM。〉
・ 新作(2004)〈以下、新作。〉

 
Chaosmos Ripples Machine
(t25)
 
Chaosmos Magnetic Acoustics Machine
(m17)
 
Chaosmos Turbulent Flow Machine 6
(t07)
 
Chaosmos Tornado Machine
(m11)
(※新作の写真は現在準備中です。)

 常設展示としてあったものも、記します。このマシンは、ライブの際には使われませんでした。

・ Chaosmos Acoustics Wave Machine(2001)
・ Chaosmos Turbulent Flow Machine 10(1999)
・ Chaosmos Particle Machine 1(1994)
・ Chaosmos Particle Machine 2(1994)

 
Chaosmos Acoustics Wave Machine
(w11)
 
Chaosmos Turbulent Flow Machine 10
(t15)
 
Chaosmos Particle Machine 1
(m07)
 
Chaosmos Particle Machine 2
(m08)
               

 会場に入りますと、倉嶋正彦氏(http://www1.odn.ne.jp/~kurashima/index.html)が飯村昭彦氏の写真をデジタル処理して作成したフォトプリント、「Chaosmos Visual Remix」が、Barのカウンターに大3枚、壁面に小4枚、計7枚、飾られています。スクリーンには、CTMを赤外線カメラで、下から上に見上げるアングルによってとらえた倉嶋氏による映像が映し出されていました。米本実氏(http://homepage3.nifty.com/yonemino/)によるカオスモスマシンのテーマソング、「Chaosmosphere」も流れていました。米本氏によるとこの題名は、ChaosmosとAtmosphereを組合せた造語だそうです。スクリーン向かって中心から僅かに右にずれた地点に、CTMが置かれてあります。CTMの上2/3に、映像が被っています。中央には倉嶋氏のプロジェクターがあり、右奥に新作が、その手前にCTFMが設置され、米本氏の自作楽器、ミキサーなどの装置が並んでいる机を挟んで、一番手前にCRMがありました。CRMの映像=影は、右側の壁に投影されています。CRMの左隣にCMAMが見えます。左の奥には観客用のソファーがあるため、マシンは置かれていません。つまりステージは、向かって左手前から右奥に広がって展開していることになります。

 プレーヤー達は、会場の照明の明るさが気になったようです。カオスモスシリーズを常に撮影している飯村昭彦氏の要望と、プレーヤー達が求める明るさが直ぐに一致しなかった様子で、照明の調整に時間がかかりました。


 照明も決まり、幾分、時間を押して、ライブはスタートしました。奏作する立場を引き受けている原田淳氏(http://www5d.biglobe.ne.jp/~mfr/)は、CTMのバーを揺らし、CMAMの天井から吊り下げられている球体に手をかけました。CMAMは、普段、奏作する人は聴診器を耳に掛け、その音も楽しみます。ライブでは、聴診器が繋がっているマシンの底のところから、米本氏がマイクによって音を拾いました。スピーカーから、CMAMの音が会場に響き渡ります。

原田氏は球体を自由にしたり、手で止めたり、主体的に手で動かしたりして変化をつけます。米本氏はその音にエフェクトをかけます。倉島氏は、球体と共に、CMAM本体の、球体に備えられた磁石によって動く下部のボールが動く様を、まるでダンサーを見つめるような視点でとらえ、スクリーンに映し出しました。

 原田氏は、新作を前にして、まずは筆によって、底に沈殿している顔料を呼び覚まします。これは普段、カオスモスマシン、特にTurbulent Flow系を奏作する人は、誰でもやることです。原田氏はライブ中、何度もこの動作を繰り返しました。マシンに対する深い理解を窺うことができます。次に原田氏は、マレットを取り出しました。初めは右手にマレット、左手は指で奏作しました。奏作が乗ってくると、両手でマレットを握ります。原田氏は「叩く」のではなく、マシンが現象を作り出すことに集中しました。勿論、演奏としての水準は高く、充分に音楽として成立しています。その様子を倉嶋氏が綿密に追います。米本氏は光センサーを取り出しました。手持ちでスクリーンに備え付け、エフェクトによる変化を与えます。米本氏はこの間、CRMに対しても干渉し、エフェクトすると同時に自らも奏作しました。CRMは米本氏によって、瞬時にPara GLOGE仕様に変化を遂げていたのです。原田氏のマレットは、一つの臨界点に到達しました。スクリーンに映し出されたマシンの現象と音が、驚異的な一体感を持っていました。音が鳴る、少し遅れて現象が可視化する、それがパルス状の襞となって、会場に襲いかかってきます。パルスの幅はとても狭く、心地好い眩暈という感覚の揺れが一体感として感じられるのです。それを程よくスピーカーから流していた米本氏の配慮も忘れることができません。

 原田氏が今度はCRMに移動します。倉嶋氏もいったんスクリーンの映像を落します。その間、米本氏は原田氏が発した臨界点の残響音をうまくエフェクトして、会場を緊張感で覆い尽し、余韻と次への期待を募らせました。原田氏はToolを置いて、自らの手のみでCRMを奏作します。倉嶋氏は上から下から、その様子をあらゆる角度から捕えます。原田氏は執拗に、マシンに現象を作り出させていきます。この際原田氏は、Toolを一切使っていないにも関らず、「叩く」という専門の作業を全く行なっていないにも関らず、素晴らしい「音楽」としての構成をその発する音に与えていました。米本氏はCTFMをスティックで叩き出し始めました。CRMの電子的な音と、叩くことによって発生する金属音が混じりあいます。


 原田氏は新作に戻りました。ここで繊細なブラシ捌きを披露しました。ブラシの先の部分と、中心から根元にかけての柄の部分をうまく使い分けて、禁欲的な音を創り上げていきます。それに合わせてマシンは微弱な現象を発生させます。カオスモスマシンとは僅かな力によっても、それに合わせた現象を創り上げるのだなあと再確認しました。米本氏は伝導センサーを用いて、ここに加わりました。音を重層的に構築します。

 原田氏はCTFMに向かいました。ゴムボールで擦る音は、それと知らない人には、どうしてその様な音が出るのか、解らなかったと思います。マレットによる連続音は、マシンの現象によって生み出されているのかと錯覚するくらい、映像と一体化していました。この一体化は、先の臨界点と比べて、正に言葉の通りの、錯覚のないリアルな鼓動でした。一筋の光がスクリーンからこぼれ、ライブは終了しました。

 この度のライブで、最も特徴的であったのは、プレーヤーそれぞれが、個々のカオスモスマシンに対する解釈を表したことです。

 原田氏はドラムの演奏に使用するマレット、ブラシを主としましたが、そこから発生する音は、普段、普通の人が奏作する「手」の延長となっていました。正に十本の指で「奏作」していることと代わりがないことが、その演奏能力の高さと、カオスモスマシンへの深い理解を表していました。この動きを、倉嶋氏は映像にとらえていました。原田氏がCRMを「奏作」する際の指の形、マレット、ブラシをもって新作を「奏作」する際の指の形、この2つの形に相違はなく、人体とマシンが触れる有機的な瞬間、カオスモスマシンの特徴と言える場面を描いていたと思います。ドラマーである原田氏が何故、このライブに参加しているのか、その意味を見極められた気がしました。その理由は、原田氏がドラマーとして最高の技量を持っているのと同時に、マシンに対しての、「奏作」することに対しての一流さを持っていることです。マシンに対する理解の深さが人一倍あることによって、最も美しくマシンの現象を引き出せるのが原田氏なのです。それはまるで巫女さんの役割のような、アラーとムハンマドの関係のような気がします。そう思うと、原田氏は「回路」の役割も担っているということができます。原田氏に、「『音』という目に見えぬモノもまた、自己の身体の筋肉や骨からの運動エネルギーが、楽器や作品という媒体により返還させられた形の一つではないだろうか」と、最近考えているんだよと教えていただきました。この話を伺う前に、この感想文を私は書いたので、原田氏の意図を読み取れたことに、とても楽しく感じました。

 倉嶋氏は、この度のライブにおいては、カオスモスマシンの持つ特性の、一番基本的なところ、「現象」を作り出す場面に焦点を絞っていたように感じられます。そのモノトーンの映像は、エフェクトを一切かけることなく、淡々と「現象」を追うことに終始しました。かといって倉嶋氏は、それだけを偏執狂に映したのではありません。ドキュメント・ヴィデオではないのです。原田氏の手を描いたことは記しましたが、あらゆる角度から「奏作」する原田氏、米本氏を映し出していました。倉嶋氏の驚愕すべき点は、決して脚立や椅子を用いずに、物凄く高い場所から俯瞰的に映しているのではないかと錯覚するような映像や、いくら屈んでも絶対に見えない、下からの角度の映像、または素人がカメラを手にして一度はやってみたい、カメラを360度、ぐるりと回す映像を、徹底的にスクリーンに「絵」として成立させることに成功しているところです。一見、モノトーンで見にくく、もっと鮮明に映すことが可能ではないだろうかと勘ぐる映像の色も、実は、ライブの最後の瞬間にCTFMから発生した「光」を、完全な形でとらえ、スクリーンに顕したことを考えて全体を振り返ると、やはりあの色でとらえることに意味があったのだと思います。


倉島氏によると、この程のライブのために、最も使い慣れた、最も早い時期から使っているカメラを用意されたとのことでした。ディテールを瞬時に捕らえる=イメージインパクトの強さを映像に収める為には、一度、「色」を捨てる作業が必要だとも、伺いました。「カオスモスマシンには「触れる」と、「触れた結果」を愛情こめて見届けないといけない」。倉嶋氏のこの言葉に、胸を打たれました。

 米本氏は原田氏の音をエフェクト=サポートすること、全体を統一することといった、言わばエンジニアの立場に終始するのではなく、どちらかというと、常に音を生み出すという電気音楽家の姿、即ち主体的立場をとりました。スクリーンと、CRMが生み出す壁に現れる映像=影に、光センサーを誘導し、原田氏が新作を奏作している間にCRMを、原田氏がCRMを奏作している時にはCTFMをスティックによって片手で奏作しながら、もう片手ではエフェクトを繰り出す、新作に対しても伝導センサーを用いてアプローチしました。瞬時にCRMをPara GLOGE仕様にした事はさすがです。それはつまり、光センサーを用い、壁に写し出される光のパターンを音として取り出すこと、弦の部分に電極を取り付け、もう一方の電極を奏作者に持たせることにより、弦の触れ方によって変化する電気量を音に変換するという2点です。米本氏がこの時、Para GLOGEの際に使用した音色を、今回は別のものに変えた意義を聞き逃してはならないでしょう。冨岡氏はライブを終えて各プレーヤーを紹介した際、「米本さんの活動にはカオスモスと共通するアプローチを感じる」とお話しされました。その言葉は確かに頷けるのですが、今回のライブに関しては、その理解の深さを前提として、主体的に創造してゆくという更なる見解を現実化したと私は思いました。しかし、米本氏に話を伺うと、「エンジニアとして安定しないと、電気音楽家としての創造がうまくいかない」と、しきりに反省なさっていました。米本氏はCHAOSMOS LIVE Vol.4のことをもう考えていらっしゃる様子です。とても素晴らしいことだと思います。
このような個々の解釈によって、ライブが円滑に進みすぎて、予想しないハプニングが起こらなかったという見方もできます。

 カオスモスマシンの特徴の一つに、予期せぬ動きが発生することを挙げる事ができます。それを「ノイズ」と言い換えることができます。この程のライブには、それが発生しませんでした。つまり、それぞれの解釈がぶつかりあうこともありませんでした。

 それぞれの解釈は、三度目だから、お互いを理解し、遠慮してぶつかり合わなかったわけでは、決してないと思います。原田氏は2003年12月22日のJ-ASEAN POPs「TOKYO-ASEAN JAM'03」[CHAOSMOS WAVE MACHINE PARTY vol.2 Surfing]のライブにおいて、初めてドラムセットでカオスモスマシンと対峙しました。その時にできたこととできなかったことが、頭の中、身体の記憶として入り、この程、表出したと思います。倉嶋氏は、同じく2003年12月22日のJ-ASEANライブ、2004年6月の理化研究所における展示、2003年7月、Para GLOGEにおける視而不見(しじふけん)シリーズCHAOSMOS/冨岡雅寛編という常設展示を経て、この期間、マシンと向き合う機会が最も多かったプレーヤーだったのです。常設展示、ライブと「共演」を繰り返し、カオスモスマシンに対して思うところは多かったと思います。その結果がモノクロームなのでしょう。米本氏も2004年2月のTEPCO銀座館における「エネルギー賞」、2003年10月、Para GLOGEにおける「Stream of Circuit」という2度の常設展示、Para GLOGEの際にはパフォーマンスも行ないました、これらを基礎として、そこにおける反省点をこの程のライブにおいて如実に表わし、成功させたと思います。

 冨岡氏のコンセプトを振り返ってみましょう。「原田の奏作[そうさ]によりカオスモスマシンから生み出された複雑な現象(動き、乱流、振動)に対し、倉嶋はビデオカメラで撮影し、プロジェクターで壁面に拡大投影する、壁面に取付けられた光センサーが映像の光の明暗で米本マシンの音響を変化させる。倉嶋は撮影と同時にビデオカメラによる演奏を行なう事になる。米本は、独自の手法でカオスモスマシンの各部分に取り付けたコンタクトマイクで、原田が生み出す音及び振動を拾いあげ、倉嶋の映像による光センサーの信号と共に米本マシンで音響化し、PAから放出する。壁面の映像、PAからの音響に対し、原田はさらなる奏作[そうさ]を展開する。(文頭へもどる)」。

 冨岡氏のコンセプトの主旨を「循環」と要約することができます。循環することが、カオスモスマシンの特徴、「現象との対話」を現前化することになります。この循環がノイズを生むことなく、うまくいったことは、カオスモスシリーズの新たな局面をも表わしていることになるのではないでしょうか。通常の所謂「コラボレーション」では、芯になるものが見えにくいものです。しかし、このカオスモスライブには、緩やかにカオスモスが持つこのような特性という芯が、はっきりと現れていました。もしかしたら、見る側も、プレーヤー自身も、カオスモスライブに慣れ過ぎてきているのかも知れません。どの立場の人にも気付かないところで、カオスモスライブは成長し、異なる相が発展していると言っても過言ではないと思います。

 このように考えると、三者によるライブは決して円熟期を迎えたのではなく、むしろ始まりを意味するものであったと言えます。

 この度のライブを、ジョン・ケージの活動を援用として、美学的見解の立場から簡単に考察をしてみたいと思います。中野克志「ジョン・ケージ―環境音楽を聴く―」(「研究紀要」第22号/2001/京都大学文学部美学美術史研究室)を参照しました。

 米本氏のこの度のライブの音に、私はオブジェを感じました。中野氏の言葉を引用します。「実験音楽では、音響は常に生起してはプロセス、あるいはそのような過程に巻き込まれている存在として把握される。従って実験音楽は、あくまでも音響効果に対する作曲家の管理が保持され、音響をオブジェ、すなわち固定され何度でも再現し得るものとして捉える、ブーレーズやシュトックハウゼンらの「前衛音楽」と対立するものとして位置付けられる」(128頁)。米本氏の普段の活動においては、ここでいう、ケージが1950年代から始めた理念、「実験音楽」の色合いを感じるのですが、今回は「前衛音楽」の意義が強かったので、私以外にも戸惑った人がもしかしたら、いたのかも知れません。

 原田氏の奏作と共通する観念も、ケージの思想から読み取ることができます。ケージは1936年にオスカー・フィッシンガーの言葉に触発されました。同じく中野氏の考察を引用します。「あらゆる事物は既に振動し、音響を発している一種の主体なのだとしたら、ケージが主体としてなすべき行為は打楽器のように灰皿を叩くことではなく、既に音響を発している事物の振動(「灰皿に内在する生」)を聞き取ることに変化する。そして、世界内に存在する様々な事物が常に環境音という音響を発しているのなら、音響は、必ずしも人間により生み出され操作される存在とは限らず、(いわば人間世界とは無関係に)自律して活動する過程(プロセス)として想定されることになる」(143から144頁)。これは原田氏の奏作というよりも、マシンとの相異を読み取ることができるかも知れない事項だと思います。

 では、倉嶋氏はどのような位置にいるのでしょうか。強いて言えば、エリック・サティ的な持続音の強度というべきでしょうか、中野氏の指摘を引用します。「ケージが観察したそれらの特徴は、サティが、伝統的な西洋音楽の音高優先原理の作曲方法を行っていただけではなく、あらゆる音響に唯一共通のパラメーターである「持続」に基づき作曲していたことを示すものであり、その点でケージはサティを(ヴェーベルンと共に)高く評価する」(147頁)。持続を強く意識して、映像として映し出す倉嶋氏の姿が、どこか重なります。

 これらの考察はこじつけかも知れません。今後、更に深めていきたい限りです。

 今回のライブで残念だったことは、会場の関係でライブ用のマシンが撤去されてしまったことと、Turbulent Flow系のマシンが主体となってしまったことでした。撤去は仕方がないことと思いますが、カオスモスシリーズの思い白さは、Turbulent Flow系だけではありません。Turbulent Flow系がライブ向きということはあるのでしょうが、それ以上のマシンが生まれるはずです。

 また、ライブ自体の「システム」、原田氏の立場の「システム」、倉嶋氏の映像の「システム」、米本氏の楽器の「システム」といった、「システム」の説明を私が怠ってしまったことについても、反省しなければなりません。初めてCHAOSMOS LIVEどころか、原田氏、倉嶋氏、米本氏のライブを見る方々にとっては、「どうしてこうなっているのか」が、分かり難かったかも知れません。原田氏は何故マシンを叩いているのか、映像にどのような意義があるのか、米本氏は一体どうやって音を出しているのか、こういった素朴な疑問に答えられるパンフレットを作るべきでした。でも、私も始めて見るライブだったので、この感想文を次回に活用するということで、冨岡氏、原田氏、倉嶋氏、米本氏、飯村氏に許しを請うつもりです。

 冨岡氏にとってカオスモスシリーズは今年が11年目です。冨岡氏にとっても今は、円熟期ではなく、過渡期に過ぎないと思います。今月の16日、24日のパフォーマンスも楽しみです。16日は今回の冨岡氏に代わって、倉嶋氏の全面企画となります。ゲストに、画家でもあり、キーボードプレーヤーの山口夏実さんが参加するそうです。使用するマシンも決定している様子です。以下に記します。

・ Chaosmos Turbulent Flow Machine 10 (1999)
・ Chaosmos Turbulent Flow Machine 8 (1998)
・ Chaosmos Turbulent Flow Machine 2-3(1999)
・ Chaosmos Turbulent Flow Machine 3(1997)
・ Chaosmos CXC-1(2002)

 
Chaosmos Turbulent Flow Machine 10
(t15)
               
 
Chaosmos Turbulent Flow Machine 8
(t09)
 
Chaosmos Turbulent Flow Machine 2-3
(t17)
 
Chaosmos Turbulent Flow Machine 3
(t03)
 
Chaosmos CXC-1
(t21)
               

このライブは全く予想がつかないので、本当に楽しみです。

 24日は、これまで2度にわたり、Wave Machineと踊ってきたダンサー、別所るみ子氏(http://www.lares.dti.ne.jp/~ruby/)が、カオスモスマシンと再会します。この日の音の担当に、原田氏が決まりました。また新たな手法で参加なされる様子です。

 この2つのライブを待ち望むと共に、10年後、20年後のカオスモスシリーズの展開を想像することも、この楽しみに付け加えなければならないと思います。

 
     
     
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