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CHAOSMOS/冨岡雅寛 X 米本電音研究所/米本実 
 「Stream of Circuit」
 

宮田徹也/日本近代美術思想史研究

 

         
     

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 冨岡氏、米本氏の仕事を美術、音楽で語られてきた従来の言説の枠に収めることは難しい。

 冨岡氏が1994年より展開しているカオスモスシリーズの特徴は、広義のカオス理論を援用し、動力を使わず、人が触れることによって起こる「物語」のない自然現象を体感するものである。そこに現れる図像はその瞬間でさえも二度と同じ様相を形成せず、触れるごとに、見る度に新しい想像力を私達は自らのカで創り出し、感受していくのである。

 しかしカオス理論の実現という側面だけを読み取られる為か、科学館などでの展示を求められることが多い。または人が触れることによって動き出す性格を強調され、インタラクティヴアートと分類される場含もある。

 二○世紀初頭からの美術運動は、技術の「進歩」の最先端と共にしてきたとも言うことができる。テクノロジーを絶賛する未来派から派生したキネティックアートはモホリ=ナギ等が形成したが、その可能性の検討がされる間もなく異なる文脈として第二次世界大戦後、エレクトロニクスの「進歩」と結びつき、ハプニング・イヴェントなどの「特別な」形で、新しい芸術表現として生まれ変わった。その延長にあるものがインタラクティヴであり、その先にあるものがヴァーチャルリアリティである。この軌跡に不可欠な要素は技術を使うことによって現れる「特別な表現効果」の産出である。冨岡氏はモーターなどの動力、またはコンピュータといった技術を全く使用せず、現実との係わり方について、特に「自然現象との対話」を主題に持つのでここには当てはまらない。人問の感覚を逆利用し、「視覚的現象」を最初から計算に入れて作られているオプチカルアートとも異なる。かといって既成の概念に対抗する為の「反=美術」でもないし「もの派」のような触れる二との出来ない閉じた形でもない。カオスモスは触れる者がそこにいることによってその存在が成り立つのである。カオスモスは美術史のどの位置にも見出すことは出来ない。

 米本氏もカオスモスの位相として位置付けることは出来る。米本氏は作曲家・演奏家・電子楽器制作者という3つの顔を持つ。しかしその活動はビデオ作品のサウンドトラック制作とか、米本氏個人だけの演奏ではないダンサー・美術家・演奏家とのコラボレーションライブといった、いわば媒介者としての性格が強い。このような行動をする音楽家がこれまでに存在したであろうか。音楽の歴史を紐解くと、美術のそれと共時的に響き合う場面が多数見受けられる。

 電子音楽の歴史も未来派のイントナルモーリから始まったと見ていい。大戦後に電子音楽はフランスのミュージックコンクレートとドイツ独自の電子音楽、全く別の流れを持つアメリカ電子音楽が相克しながら「進歩」をした。技術が進めば進むほど、音楽の場合は人問の手では演奏不可能な地点に向っていった。その作業は複雑性を増し、作曲者と演奏者ばかりではなく、音響学からの楽器の開発者・シンセサイザープログラマー・レコーディングエンジニアといった分業が進んだ。米本氏の什事はそういった分業に対して近代的な「天才的個人」の復活を目指しているものではない。米本氏はあらかじめプログラミングされたものをON-OFFするコンピューターミュージックを懐疑し、その発展途上にあったであろう電気音楽そのものの音、「アナログ」の音の再考察を目論んでいる。だから米本氏の仕事は秋葉原の電気街を彷徨うことから始まる。捜し求めた部品をハンダゴテでつなぎ、そこから人間の生理や静電気を初めとした地上に存在するあらゆるものが持つ「電気」を発生させ、我々の耳に響かせてくれる。そのような意味で米本氏の仕事は「アナログ」というよりも、「白然現象」を顕していると言ってもいいのかも知れない。

 年齢も環境も異なった二人が行動を共にしたことは過去二度ある。
2002年11月29日―12月12日までに横浜のgalleryCRADLEで開かれた「冨岡雅寛カオスモス展`02/thlrd」2日目のパフォーマンスと、2003年6月29日―7月12日までの兜町SPCgalleryに於ける展示の際の初目に行なわれたCHAOSMOS LlVEである。しかしこの時には両日ともパーカッションの原田淳氏と、ライブビデオシューティングの倉嶋正彦氏が共演した。また、これは「ライブ」としての機能が多分に働いていたのであって、「展示」としての行為は今回が始めてである。

 冨岡氏の数あるカオスモスマシンで今回展示されたものは、「CHAOSMOS Ripples Machine」(Ripples=さざ波)であり、弦を振動させるとマシンそれ自体も動きが生ずるのではあるのだが、更にその振動波パターンが壁面に映るもので、米本氏はその壁面の影になる部分に光センサーを取り付け、このパターンを音として現前化する。同時に揺らす弦の部分に電極を設置し、触れる人の身体を抵抗として音を発生させる。米本氏の音は「電気」の音そのものであり、デジタル的なエフェクト処弾は一切されていない。まず弦に触れて発生する音は、触れる人自らの音である。しかし、弦を手放さなければカオスモスマシンは起動しない。離してしまうとこの音は途絶え、代わりに自らの身体の行為の延長線上としての弦の振動が影となり音になるのである。この二つの音が物理上同時に発生する二とはない。同時に「アナログ」のレスポンスは「デジタル」とは比べ物にならないほど早く、直接的なのであって、この二つの動作における処理の遅れによる同時発音が起こることは期待できない。しかし自らが関わった行為が共に「音」になるのであるのだから、「時間」という概念を身体の中から消し去ってしまえば、一」つの「音」を再び自らの[カラダ]の中に還元し、耳にすることは可能であろう。または全く想像のつかない動作を行なえば、同時に二つの「音」を出す二とが現実的に、身体的に可能なのかもしれない。カオスモスマシンは個人の動作の「意志」に反応する。様々な「意志」を試して頂きたい。

 この二者によるマシンに触れる我々は今回の展示に際して、何故このような存在が現代に現れているのかについて興味を抱かなければならない。何故ならこれはまだ「歴史」に描かれていないからだ。人は自己に必要な情報、または既に経験のある記号しか読み取らない。「美」と「芸術」は「技術」によって分離されたと言われているが、この発想は既にそのような枠に囚われた考察に過ぎない。マシンに触れることは「芸術」というハイカルチャーの高みに参加させてもらえるというものではなく、触れる人が「美」という不可解なものをここで発見し、その中に入り込めるきっかけを作ってくれるものであると解釈する。今まで造り上げられた枠を外し、新しい「美」を自らの中で発見する。その発見からまた新しい何かが生れ、また新しい何かを形成する予感がここにある。

日本近代美術思想史研究 宮田 徹也 awoniyoshi@themis.op.ne.jp

 
     
     
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